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第186回[インドネシア×政治]スリ・ムリヤニ蔵相の解任、岐路に立たされるインドネシア政府財政と政治

【~連載~川端 隆史のアジア新機軸】
第186回[インドネシア×政治]スリ・ムリヤニ蔵相の解任、岐路に立たされるインドネシア政府財政と政治

元外交官 × エコノミスト 川端 隆史のアジア新機軸

2025年8月下旬から9月にかけて、インドネシアでは大規模デモが発生し、国際的な注目が集まった。様々な論点があるが、筆者が特に注目したのは財務相スリ・ムリヤニ・インドラワティ氏の解任である。国際的にも知名度と信頼感が高く、インドネシア経済の要の人物だ。

デモの火種は国民議員(DPR)の住宅手当の引き上げに対する反対。DPR議員は、住宅手当として毎月5,000万ルピア(約45万円)が支給され、基本給や諸手当を合わせると毎月1億ルピアを超える。これはジャカルタの最低賃金の約10倍に当たり、インフレに直面する庶民の怒りを買った。

8月25日のジャカルタで学生らを中心とした大規模デモが発生。当局が鎮圧に動く中、機動隊の装甲車が複数の人をひき逃げし、21歳の若者が亡くなった。これを受けて庶民の怒りは一挙に高まり、バンドンなどにも飛びつつ全国に広がった。

抗議者は「17+8の要求」と呼ばれる改革リストを掲げ、議員特権の凍結、警察改革、生活必需品価格の安定化を求めた。目先の生活改善にとどまらず、政治体制そのものへの不信が現れた格好だ。

怒りの矛先は財務省、そしてスリ・ムリヤニ氏個人にも向かい、彼女を攻撃するフェイク情報や、発言の意図を曲解させるような画像や動画が出回った。「緊縮財政を押し付ける冷酷な官僚」というイメージが強化され、群衆は彼女の自宅を襲撃するに至った。

プラボウォ・スビアント大統領は、政権の安定を最優先し、内閣改造を断行。スリ・ムリヤニ氏の解任は、抗議運動の「ガス抜き」として利用された側面は否定できない。

彼女の解任劇には国際市場も反応し、ルピアは対ドルで一時2%近く下落し、ジャカルタ総合指数も数%下落。大手格付け会社Fitchは「社会不安が続けばソブリン格付けに悪影響を与える」と警告し、Moody’sも「新政権の歳出拡大路線は財政規律を損なう」と指摘した。格付けは変更されていないが、各社は注視している。

後任に就いたのはプルバヤ・ユディ・サデワ氏。国営の預金保険公社のトップを務めた経済テクノクラートだ。プルバヤ氏は赤字上限の3%ルールは守ると約束すると同時に、200兆ルピア(約120億ドル)の資金を国有銀行に注入し、庶民層への食料援助や雇用プログラムを打ち出し、成長重視の色合いを鮮明にしている。短期的には不満の鎮静化に寄与するだろう。

しかし、中長期的には財政赤字の拡大と通貨安・インフレ圧力が表裏一体だ。

今回の一連の出来事は、インドネシアが直面する二律背反を鮮明にした。すなわち、庶民の生活を支えるための即効的な支出拡大と、国際市場の信認を維持するための財政規律。プルバヤ財務相の見識は高く評価されているが、財政規律に対するスタンス、そして政治との関係からスリ・ムヤニ氏との違いが現れてくるだろう。一部には、スハルト体制が崩壊した1998年危機の再来という声もある。

当時とは政治情勢などが大幅に違うが、この四半世紀のインドネシア情勢で、最も重要な局面を迎えていることは確かだろう。

2025年インドネシア抗議運動と財務相解任の時系列

出所)各種報道等より筆者作成

*2025年9月24日脱稿

プロフィール

川端 隆史 かわばたたかし

ジョーシス株式会社
ジョーシスサイバー地経学研究所(JCGR) 所長兼主任研究員

外交官×エコノミストの経験を活かし、現地・現場主義にこだわった情報発信が特徴。東南アジアなど新興国政治経済、地政学、サイバーセキュリティ、アジア財閥、イスラム経済、スタートアップエコシステム、テロ対策・危機管理などが主な関心事。

1999年に東京外国語大学東南アジア課程を卒業後、外務省で在マレーシア日本国大使館や国際情報統括官組織等に勤務し、東南アジア情勢の分析を中心に外交実務を担当。2010年、SMBC日興証券に転じ、金融経済調査部ASEAN担当シニアエコノミストとして国内外の機関投資家、事業会社への情報提供に従事。

2015年、ユーザベースグループのNewsPicks編集部に参画し、2016年からユーザベースのシンガポール拠点に出向、チーフアジアエコノミスト。2020年から2023年まで米国リスクコンサルティングファームのシンガポール支社Kroll Associates (S) Pte Ltdで地政学リスク評価、非財務・法務のビジネスデューデリジェンスを手がけた。

2023年にEYストラテジー・アンド・コンサルティングのインテリジェンスユニット・シニアマネージャーとしてビジネスインテリジェンスの強化を手がけた後、2024年4月よりジョーシス株式会社にてジョーシスサイバー地経学研究所を立ち上げ、地経学とサイバー空間をテーマに情報発信。

共著書に「マレーシアを知るための58章」(2023年、明石書店)「東南アジア文化事典」(2019年、丸善出版)、「ポスト・マハティール時代のマレーシア−政治と経済はどうかわったか」(2018年、アジア経済研究所)、「東南アジアのイスラーム」(2012年、東京外国語大学出版会)、「マハティール政権下のマレーシア−イスラーム先進国を目指した22年」(2006年、アジア経済研究所)。

栃木県足利市出身。NewsPicksプロピッカー、LinkedInトップボイス。
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