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第184回[インド×中国]5年ぶりの直行便と国境貿易ルートの復活。印中は「戦術的融解」へ。

【~連載~川端 隆史のアジア新機軸】
第184回[インド×中国]5年ぶりの直行便と国境貿易ルートの復活。印中は「戦術的融解」へ。

元外交官 × エコノミスト 川端 隆史のアジア新機軸

インドと中国が2025年8月19日、直行便の再開や国境貿易の復活、ビザ手続きの円滑化を含む経済連携強化で合意した。新型コロナ禍、そして2020年の国境衝突以降、両国関係は停滞していたが、今回の動きは「雪解け」の兆しを示すものである。

まずは直行便の復活だ。かつてはニューデリー-上海、ムンバイ-北京など9路線が運航され、年間125万人以上が往来していた。しかし、中断後は乗り継ぎ便を使わざるを得ず、2024年には61万人台へと激減した。直行便の不在は移動コストや時間的損失を招いただけでなく、投資判断やサプライチェーン設計における「心理的距離」を拡大させた。再開によってこの摩擦は取り除かれ、企業間の交流の加速につながる。

さらに三つの国境貿易ルートが再開する。リプルク、シプキ・ラ、そしてナトゥー・ラの峠である。いずれも歴史的な交易路であり、今回の再開は地域経済とサプライチェーンの活性化につながる動きである。これは、地域経済に血流を通す意味を持つ。インフラ整備や地場産業と結びつきやすく、地方レベルでの供給網強化を促すだろう。

ビザ手続きの簡素化も、人の往来を容易にし、信頼醸成や新たな機会創出に資する。これらは航空、物流、国境通商、人的交流といった複数の領域で「ビジネス空間の再構築」を進める契機となる。

しかし、今回の合意を過度に楽観視すべきではない。国境紛争という地政学リスクは解消されておらず、インドが中国への戦略的警戒を緩めたわけではない。背景には、米国による関税や外交圧力が強まる中での共通の不満が考えられる。

インドは米中双方との距離感を調整し、中国は対米圧力を緩和するカードとしてインドとの接点を模索する。したがって今回の合意は「戦略的雪解け」というより「戦術的融解」と捉えるのが妥当である。

日本企業にとって重要なのは、この流れをアジアのバリューチェーン再編の一環としてどう捉えるかだ。物流効率改善や、生産拠点の選択肢の増大といったオペレーショナルな恩恵から、もう一歩踏み込んで捉える必要がある。現地市場アクセスやデータ規制、技術標準といったルール形成を中心とした中長期的テーマも視野に入れるべきだろう。

米中対立が続くなかで、インドと中国がどのように経済的接点を模索するのか。その揺らぎを注視しつつ、自社のポジショニングを戦略的に構想する必要がある。

今回の合意は単なる利便性の回復にとどまらず、アジアのビジネス地政学がいかに流動的かを示している。日本の経営層にとっては、変化する環境を前提に、柔軟かつ先を見据えた対応を練ることが求められている。

 

*2025年8月27日脱稿

プロフィール

川端 隆史 かわばたたかし

ジョーシス株式会社
ジョーシスサイバー地経学研究所(JCGR) 所長兼主任研究員

外交官×エコノミストの経験を活かし、現地・現場主義にこだわった情報発信が特徴。東南アジアなど新興国政治経済、地政学、サイバーセキュリティ、アジア財閥、イスラム経済、スタートアップエコシステム、テロ対策・危機管理などが主な関心事。

1999年に東京外国語大学東南アジア課程を卒業後、外務省で在マレーシア日本国大使館や国際情報統括官組織等に勤務し、東南アジア情勢の分析を中心に外交実務を担当。2010年、SMBC日興証券に転じ、金融経済調査部ASEAN担当シニアエコノミストとして国内外の機関投資家、事業会社への情報提供に従事。

2015年、ユーザベースグループのNewsPicks編集部に参画し、2016年からユーザベースのシンガポール拠点に出向、チーフアジアエコノミスト。2020年から2023年まで米国リスクコンサルティングファームのシンガポール支社Kroll Associates (S) Pte Ltdで地政学リスク評価、非財務・法務のビジネスデューデリジェンスを手がけた。

2023年にEYストラテジー・アンド・コンサルティングのインテリジェンスユニット・シニアマネージャーとしてビジネスインテリジェンスの強化を手がけた後、2024年4月よりジョーシス株式会社にてジョーシスサイバー地経学研究所を立ち上げ、地経学とサイバー空間をテーマに情報発信。

共著書に「マレーシアを知るための58章」(2023年、明石書店)「東南アジア文化事典」(2019年、丸善出版)、「ポスト・マハティール時代のマレーシア−政治と経済はどうかわったか」(2018年、アジア経済研究所)、「東南アジアのイスラーム」(2012年、東京外国語大学出版会)、「マハティール政権下のマレーシア−イスラーム先進国を目指した22年」(2006年、アジア経済研究所)。

栃木県足利市出身。NewsPicksプロピッカー、LinkedInトップボイス。
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