【~連載~川端 隆史のアジア新機軸】
第183回[ベトナム×経済発展]ホーチミンシティ、貧困ライン世帯がゼロへ。今後問われる地方の発展

元外交官 × エコノミスト 川端 隆史のアジア新機軸
ベトナム最大の都市ホーチミンシティは、2024年6月末時点で「国家の多次元的貧困ライン以下の世帯が消滅した」と発表した。8月15日付の現地各紙が報じている。2021年には約58,000世帯の貧困・準貧困世帯があった。
ベトナム全体の貧困率も長期的に大幅に改善している。1993年には58%に達していた貧困率が、2002年には28.9%、2008年には14.5%へと低下した。2022年時点では、世界銀行が定義する1日1.90ドル未満で生活する「極度の貧困」に該当する人口は全体の2%以下にまで減少している。つまり、国際基準に照らしてもベトナムはすでに「極度の貧困」から脱却しつつあるといえる。
ベトナム政府が採用している「貧困ライン」は、国際的な定義と完全には一致していない点には注目しておきたい。国際基準は主に所得水準に基づく「絶対的貧困」を測るものだ。購買力平価換算による2.15ドル(極度の貧困)、3.65ドル(低中所得の貧困)、6.85ドル(中高所得国の貧困)といった基準が用いられる。
一方、ベトナム政府が採用する「多次元的貧困」は、所得に加えて教育、医療、住宅、社会保険、生活環境といった指標を組み合わせて判定する。したがって、ホーチミンシティが宣言した「貧困ゼロ」とは、単に所得水準の改善だけでなく、社会的サービスへのアクセス改善も含めた、より包括的な基準に基づく成果とも解釈できる。
ただ、「統計上のゼロ」の延長線上にある都市生活の実態も考えておきたい。都市部の生活コスト上昇を考えると、貧困ラインを上回っていても、生活はギリギリという世帯があるだろう。さらに、非正規雇用者などインフォーマル経済に生きる人々は、統計には捕捉されにくい。
地域格差の問題も考えておきたい。北部山岳地帯や中部高原の農村地域では依然として10%を超える貧困率が報告されている。都市部と地方部の格差は、今後の国家的課題として浮上している。
それでもなお、ホーチミンシティの「貧困世帯ゼロ」達成は、ベトナム経済の発展を示すマイルストーンとして捉えて良いだろう。経済成長と社会政策を連動させ、統計上の極貧状態を比較的短期間で解消した。他の途上国の都市政策においても参照すべき部分が多々あるだろう。
日本企業の視点からは、今後、一層、ホーチミンシティの高まる購買力を背景にしたビジネス機会が広がっていくだろう。まだ「量」としての厚みの段階だが、近い将来、「質」への注目も高まるだろう。企業は短期での売上拡大を実現しつつ、より所得が高まることをにらんで、中長期の「質」やブランド価値に訴えかける戦略を両輪でまわしていくことが必要になりそうだ。
■貧困基準概念の世界とベトナムの比較

*2025年8月20日脱稿
プロフィール
川端 隆史 かわばたたかし
ジョーシス株式会社
ジョーシスサイバー地経学研究所(JCGR) 所長兼主任研究員
外交官×エコノミストの経験を活かし、現地・現場主義にこだわった情報発信が特徴。東南アジアなど新興国政治経済、地政学、サイバーセキュリティ、アジア財閥、イスラム経済、スタートアップエコシステム、テロ対策・危機管理などが主な関心事。
1999年に東京外国語大学東南アジア課程を卒業後、外務省で在マレーシア日本国大使館や国際情報統括官組織等に勤務し、東南アジア情勢の分析を中心に外交実務を担当。2010年、SMBC日興証券に転じ、金融経済調査部ASEAN担当シニアエコノミストとして国内外の機関投資家、事業会社への情報提供に従事。
2015年、ユーザベースグループのNewsPicks編集部に参画し、2016年からユーザベースのシンガポール拠点に出向、チーフアジアエコノミスト。2020年から2023年まで米国リスクコンサルティングファームのシンガポール支社Kroll Associates (S) Pte Ltdで地政学リスク評価、非財務・法務のビジネスデューデリジェンスを手がけた。
2023年にEYストラテジー・アンド・コンサルティングのインテリジェンスユニット・シニアマネージャーとしてビジネスインテリジェンスの強化を手がけた後、2024年4月よりジョーシス株式会社にてジョーシスサイバー地経学研究所を立ち上げ、地経学とサイバー空間をテーマに情報発信。
共著書に「マレーシアを知るための58章」(2023年、明石書店)「東南アジア文化事典」(2019年、丸善出版)、「ポスト・マハティール時代のマレーシア−政治と経済はどうかわったか」(2018年、アジア経済研究所)、「東南アジアのイスラーム」(2012年、東京外国語大学出版会)、「マハティール政権下のマレーシア−イスラーム先進国を目指した22年」(2006年、アジア経済研究所)。
栃木県足利市出身。NewsPicksプロピッカー、LinkedInトップボイス。
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