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第176回 [インドネシア×歴史]インドネシアで進む「歴史の書き換え」と反共ナラティブの再生産

【~連載~川端 隆史のアジア新機軸】
第176回 [インドネシア×歴史]インドネシアで進む「歴史の書き換え」と反共ナラティブの再生産

インドネシア国旗を掲揚する子供たち

元外交官 × エコノミスト 川端 隆史のアジア新機軸

インドネシアでは歴史教科書の書き換えが政治的な話題となっている。2025年5月8日、ファドリ・ゾン文化相は、インドネシア政府は独立記念日の8月17日までに、国家公式の歴史教科書を全面的に書き換えるとメディアのインタビューに応えた。

同文化相は「歴史は正しく書かれるべきだ」と述べ、インドネシア中心の視点と国民的アイデンティティを重視する方針を強調している。しかし、この動きについての国内世論は、歴史教育改革という名の下で進む反共主義の再強化として議論を呼んでいる。

問題の核心は、1965年の共産党(PKI)によるとされるクーデター未遂事件と、それを口実に軍が主導した大規模な「共産主義者狩り」にある。この事件では、最大で50万人ともいわれる人々が殺害された。スハルト将軍による政権掌握とその後32年間続いた「新秩序(Orde Baru)」体制は、反共主義を国是とし、共産主義的思想やその言論を厳しく取り締まった。

スハルト体制崩壊から四半世紀以上経った今も、共産主義はインドネシアで強い社会的タブーとされている。今回の教科書改訂において、ファドリ文化相は「1965年の血なまぐさい歴史には論争はない」と明言、事実上、反共的な既存の国家ナラティブを変更しない方針を示した。

この発言に対して、人権団体や歴史学者からは強い懸念が上がっている。批判派は、政治的な歴史の書き換えが行われ、スハルト政権による弾圧や1998年の民主化運動弾圧が正当化されかねないと警告する。当時、国軍司令官だったのはプラボウォ現大統領であり、長年、弾圧への関与が指摘されている。

実際、現大統領プラボウォ氏はスハルトの娘婿であることに加えて、軍事的背景と権威主義的傾向を持つことで知られる。今回の教科書改訂は、こうした体制へのノスタルジアを呼び起こし、政権の正統性強化に利用されるとの見方が根強く存在する。

この動きは、東南アジア全体に見られるナショナリズム強化と歴史教育の政治利用の一環とも言える。歴史教科書を通じて若年層に一方的な国家像を植え付けることは、将来的に民主主義や表現の自由を損なう危険性も懸念されている。歴史をどう語るかは、単なる過去の問題ではなく、未来の社会をどうつくるかという問いともなる。

今回のインドネシアでの暦書教科書改訂の動きがどのような結末となるのか、またその影響が注目される。

*2025年5月28日脱稿

プロフィール

川端 隆史 かわばたたかし

ジョーシス株式会社
ジョーシスサイバー地経学研究所(JCGR) 所長兼主任研究員

外交官×エコノミストの経験を活かし、現地・現場主義にこだわった情報発信が特徴。東南アジアなど新興国政治経済、地政学、サイバーセキュリティ、アジア財閥、イスラム経済、スタートアップエコシステム、テロ対策・危機管理などが主な関心事。

1999年に東京外国語大学東南アジア課程を卒業後、外務省で在マレーシア日本国大使館や国際情報統括官組織等に勤務し、東南アジア情勢の分析を中心に外交実務を担当。2010年、SMBC日興証券に転じ、金融経済調査部ASEAN担当シニアエコノミストとして国内外の機関投資家、事業会社への情報提供に従事。

2015年、ユーザベースグループのNewsPicks編集部に参画し、2016年からユーザベースのシンガポール拠点に出向、チーフアジアエコノミスト。2020年から2023年まで米国リスクコンサルティングファームのシンガポール支社Kroll Associates (S) Pte Ltdで地政学リスク評価、非財務・法務のビジネスデューデリジェンスを手がけた。

2023年にEYストラテジー・アンド・コンサルティングのインテリジェンスユニット・シニアマネージャーとしてビジネスインテリジェンスの強化を手がけた後、2024年4月よりジョーシス株式会社にてジョーシスサイバー地経学研究所を立ち上げ、地経学とサイバー空間をテーマに情報発信。

共著書に「マレーシアを知るための58章」(2023年、明石書店)「東南アジア文化事典」(2019年、丸善出版)、「ポスト・マハティール時代のマレーシア−政治と経済はどうかわったか」(2018年、アジア経済研究所)、「東南アジアのイスラーム」(2012年、東京外国語大学出版会)、「マハティール政権下のマレーシア−イスラーム先進国を目指した22年」(2006年、アジア経済研究所)。

栃木県足利市出身。NewsPicksプロピッカー、LinkedInトップボイス。
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